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| 〜神奈川県内唯一の旧官幣社〜 |
| 祭 神 |
護良親王(もりながしんのう)
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| お祭り日 |
8月20日(例大祭)
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| 場 所 |
鎌倉市二階堂154番地 |
| 交 通 |
JR鎌倉駅東口より京浜急行バス『鎌倉宮』行きで約8分
終点『大塔宮』にて下車、すぐ。 |
| TEL |
0467(22)0318 |
| FAX |
0467(22)3755 |
| URL |
http://www.kamakuraguu.jp/ |
| 備考 |
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[いわれ]
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鎌倉宮は、明治2年(1869)に後醍醐天皇の皇子、護良親王(もりながしんのう)をご祭神として創建された神社です。護良親王は延慶(えんぎょう)元年(1308)にご誕生になり、6歳の時、京都にある三千院に入られ、11歳で比叡山延暦寺に入室されました。
幼い頃は尊雲法親王(そんうんほっしんのう)と呼ばれ、京都の法勝寺の大塔(おおとう)に住居をおいた事から大塔宮(おおとうのみや)とも呼ばれていました。
20歳の時、天台宗の最高位である天台座主(てんだいざす)となられますが、父帝の後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の思いを遂げる為、還俗(げんぞく)して名を護良(もりなが)と改め、戦へと向われました。
鎌倉幕府が倒幕され、親王はその功績を認められ兵部卿(ひょうぶきょう)・征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の役職につかれます。しかし、武家政権の樹立をめざす足利高氏との間で確執がおこり、親王は足利方によって捕らえられ、鎌倉東光寺の土牢(つちろう)に送られ、およそ9ヶ月間幽閉されました。
建武2年(1335)7月23日、中先代の乱に敗れた足利直義(あしかがただよし)は、家来の淵辺義博(ふちべのよしひろ)に命じ、親王を殺めてしまいます。 28歳という若さでの薨去(こうきょ)でした。
それから534年後、明治維新を成し遂げた明治天皇は、平和な世の中を望まれた護良親王(もりながしんのう)の精神を後の世の人々に伝える為、鎌倉宮の創建を命じられました。
明治2年(1869)6月14日に『鎌倉宮』の宮号が決定され、7月21日に遷座祭が行われました。
例祭日は親王の薨去(こうきょ)された陰暦7月23日を基に太陽暦に直した8月20日に定められました。
明治6年(1873)4月16日の明治天皇行幸をはじめとして皇族のご参拝は幾度にも及びました。
明治6年(1873)6月9日には、官幣中社(かんぺいちゅうしゃ)に列せられ、終戦までは県内唯一の官幣社でした。 現在も多くの人々に篤く崇敬されています。
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[見 所]
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・本 殿 〜 ご祭神 護良親王(もりながしんのう)
明治2年7月21日鎮座、神明造の社殿。
・拝 殿 〜 入母屋造の社殿。
・(摂社)南方社(みなみのかたしゃ) 〜 ご祭神 南方(みなみのかた) (公家の藤原保藤(ふじわらやすふじ)の娘)
明治7年11月22日鎮座。
・(摂社)村上社(むらかみしゃ) 〜 ご祭神 村上彦四郎義光(むらかみひこしろうよしてる) (護良親王の家来)
明治7年11月22日鎮座。
・土(つち) 牢(ろう) 〜 ご祭神 護良親王が幽閉(ゆうへい)されていた牢
(建武元年(1334)11月15日より
建武2年(1335)7月23日まで約9ヶ月間)
・鎌倉宮碑(かまくらぐうひ) 〜 大正11年4月に完成。 明治天皇が、鎌倉宮の創建・行幸(ぎょうこう)への想いを三条実美(さんじょうさねとみ)と語った際の記述を石碑に刻んだもの。
大正10年6月、松方正義(まつかたまさよし)の謹書。
・御構廟(おかまえどころ) 〜 護良親王の首級(みしるし)が置かれたとされる場所。
・宝物殿(ほうもつでん) 〜 明治6年の明治天皇行幸に際して行在所(あんざいしょ)として使われた
建物を大正時代に改修。
・小賀玉(おがたま)の木 〜鎌倉市の天然記念物に指定されています。
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[まつり]
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・例祭(8月20日)
ご創建当初、ご祭神の護良親王の薨去日である旧暦7月23日に例祭を行う事が検討され、太陽暦に直した8月20日を正式な例祭日とすることが決定された。現在は、8月19日に例祭前夜祭、8月20日に例祭、8月21日に例祭後鎮祭が斎行されている。
・草鹿神事(くさじししんじ)(5月5日)
源実朝が誕生した際、両親が健在な鎌倉武士達により産所の前で鹿の姿をかたどった人形の的に向かい弓を射て祝った、との記述が「吾妻鏡」の中に残っている。これが草鹿神事の始めであり、鎌倉宮では昭和初期より境内で奉納されており鎌倉市の伝統行事のひとつになっている。現在では、『小笠原流鎌倉古式弓道保存会』の方々により奉納されており、勝ち組の大将には神職より菖蒲の花が授与されている。
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